『問いつめられたパパとママの本』伊丹十三著


‏鬼才で多彩な伊丹監督。



物書きでもあり、書く内容には科学的なものも多く、また映画監督でもある。



また別の本では外国での話も多く取り上げている。



活動の幅を制限せず、広々と仕事を手がけて生きていた印象のある人です。



子供の「なぜ?」と思う事は、正直大人でも答えられないことがよくあります。



大人になるという事は、その「なぜ?」を分解していき、細かいなぜ?にもっていけるということ、またその結果、解決できるということ。



身近なことやものに「なぜ?」を見出せる能力は、大人になるにつれて薄れていきますが、普段当たり前と思っていることにも、本当にそうなの?と疑える感覚はいつまでも持っていたいものです。



それらの「なぜ?」を根気強く、一つ一つ見つめて考えていくことで、新しいことの発見につながったり、また仕事になったりして、新しい扉が開けるかもしれません。
この本で心に残った場面があります。

↓以下抜粋

ドウシテ未開人ガイルノ?より

「いや、そんなことなないだろう。やっぱり同じ人間だろ。未開人ができるのは環境のせいじゃないのかね。」

「環境ってどういうこと?具体的に」

「つまり、気候とか風土ってのが快適でさ、果物だとか木の根っこなんか、食べるものが簡単に手に入ってさ、あるいは、カンガルーなんかとったり、カニだとかカキなんかつかまえたりして、わりに楽に暮らして行けるとすれば、あんまり進歩する必要がないってことがあるんじゃないかね」

「だったら日本にだって、そういう快適なところはいくらでもあるけど、日本には未開人なんていないじゃないの」

「いや、それは違うんだよ。快適なだけじゃなくてさ、孤立してなきゃ未開人にはならないよ、そりゃ。他の種族と交流できないような場所に住んでいるから、文明の発達に取り残されちゃうんじゃないか」





このあたりが非常に印象的でした。



これを人類の文明の発達という大きな枠ではなくて、1人の人間の進化、進歩や一つの会社の発展という枠に当てはめた時、



快適すぎる環境かつ孤独であるということは、進歩をとめてしまう。周りに置いていかれる一つの要因になりかねないんだ。



と、思うと、今ある環境を敢えて不便にして、そこから得られるものがあるかもしれない。と実験したくなりました。



沢山のモノが溢れて、世の中はより効率よく快適な環境へと進んでいっていますが、他の人の考えてできた快適を鵜呑みにして、自分で熟考しないのは、自分の頭が退化している感じがするのです。



勿論、すべてを熟考するのは無理ですが、気になったことを自分の頭の中で再度考えてみることは必要だと思います。





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